少し前に、
を紹介しました (参照)。
以来このかた、家にあった小林秀雄本を掘り出してまた足りないものは買い足して、電車に乗っているとき、寝る前などなど三昧生活となっています。
今日は「真贋」を紹介しましょう。
の帯の
三十代の中頃—、小林秀雄に狐がついた。美の狐だ。以来、陶器、土器、書画と、四十代の初めまで続いた眼の七転八倒を披露する「真贋」
と云う紹介文にあるとおり、真贋とは骨董品の「ホン物」と「ニセ物」のことです。
この文章で、小林秀雄は、修行を積めば目利きとなり「ホン物」と「ニセ物」をたやすく見分けられるようになるとか自分はその目利きであるとかを云っているのではないのです。
のっけから「ニセ物」など増える一方などということを云っている。そもそも商売人はにせ物などという言葉を使いたがらないのだと云い、その代わり「二番手」「ちと若い」「ショボたれている」とか「イケない」「ワルい」とか云っておくのだそうである。
ある骨董屋の主人が茶碗を見てどうしても欲しくなり三千円(今のお金で300万ほど)で落札したところ同業者にあれはいままで300円の値段もついたことがない品だといわれ落胆して一睡もできないでいると明け方突如、「茶碗はいいのだ、俺という人間にしんようがないのだ」という考えが浮かんで、やっとぐっすり眠られたというような逸話があって,何とその骨董屋の主人に信用がつくに従い、茶碗が美しくなっていくのだというような一読そんなバカなというような話が語られる。ここで「では美は信用であるか。そうである。純粋美とは譬喩である。」と言い切るのですが,骨董とはそんなものであるのだそうです。
これでぼくの目からウロコが落ちた。
これは研究と一緒ですよ。
結構な自信作だと思う論文でもいとも簡単に掲載を断られます。同じ雑誌にどう考えても不完全な論文があっさり載っているのを目の当たりにするとどういう訳なのかなと夜も眠れなくなるわけです。
要するに自分は、おもしろく,意義のある発見ととくだらないこと、凡庸な発見の見分けがつかないマヌケであるか、自分の発見を過不足無く表現する能力に欠けたバカ者であるのかと思いもう研究などやめたほうがいいのではとかウジウジと悩んだりを繰り返して訳ですが、要するに論文が採ってもらえないのは,研究が悪いのではなく自分に信用が無いからではないかと思えばいいのだということに気づいたという訳です。
他人の論文でも信じていると、”あれはウソだよ。もう誰も信じていない”とか訳知り顔で言われる事もあり海外の学会に行かず、極東の臨床研究室でやっているものにはそんなこと今更言われてもな,どうも変だと思っていたんだよとしかいいようのないこともあります。
壷を美術鑑賞するのでなく、骨董としていじるように研究もやっていかんといけないのだと妙に納得したのです。
研究も最近はずいぶん、偽物とか作り物が多くなり、自分の所属大学に取り上げろとか言われても頑として突っぱねている人もいるようですが、これで信用をなくしたら本当はおしまいなのでしょうね。
に収録されています。
「骨董」という文章もこれには入っていてまことに便利な文庫本です。